『バケモノの子』を観て思った卵かけごはんと付喪神のこと

こんにちは。あなたの自由度をあげるヒーラー セントラルサン林 陽子です。

テレビで『バケモノの子』の放映を観ました。私はあの作品の考え方には賛同しかねるので今後はもう観ないかな~と思ったのですが、どこがどう気になるのかまとめてみようと思いました。

後半、他者との距離の問題やエネルギー的なことも書いています。

ネタバレもありますので未視聴の方で結末を知りたくない方はスルーしてくださいませ。

『バケモノの子』はひとつひとつのエピソードが雑

基本的に、私がなぜこの作品についてモヤモヤするのかと言うとなんだかひとつひとつのエピソードが雑で繋がらないと思うからなんです。

例えば冒頭。母を亡くした九太(連)が親戚から逃げ出します。親戚が父親のことを「もうあの人は赤の他人」と言い放ったからなんでしょうが、いきなり「一人で生きてやる!」と逃げ出すのはちょっと唐突すぎやしませんか?

そもそも離婚しても親であることには変わりないんだから、父親に面会ぐらいさせるでしょう?今まで定期的に面会させてなかったのかなぁ?親戚が威圧的だけど母親と二人暮らしならいくらでも父親に連絡取れるよね?電話番号はメモってないの?母親はスマホ持ってなかったのかな?9歳なら電話かけられるよね?

…といろいろ疑問が頭の中を駆け巡ります(笑)

なんだか夜の渋谷で熊徹と出会わせたいがために「一人で生きてやる」という台詞があるような気がしてしまうんですね。

傷心の九太がただ渋谷をあてもなく彷徨うだけでも良いんじゃないのかなぁ。シンプルに訴えかけてくるような気がしてしまいます。

ジブリと比べるのはどうかと思いますが、例えば『天空の城ラピュタ』でドーラが「40秒で支度しな」と言うシーンがありますよね。

パズーは飼育していた鳩の小屋を開けます。帰ってこれないかもしれないからこそ鳩を逃がすわけなんですけど、あのシーンのおかげで私達はすごく安心したはずなんです。鳩を逃さなかったら絶対「あの鳩は生きてないかもしれない」って皆、モヤモヤが残ったと思うんです。

話の本筋に全然関係ないのに、そういう細かいところが気になるものなんですよね。だからちゃんとそこを描いているところが素晴らしいのです。

パズーは気を失ったシータが空から降りてきたあと自分のベストをかけて寝かせてもあげてましたね。ベストが小さすぎてあんまり役には立たなそうだけど(笑)

このふたつのシーンはパズーの性格をよく現しています。

どちらも短いシーンですが、これがあったおかげで私達はパズーを信頼できたと思うんですね。

『バケモノの子』は食べ物が美味しそうに見えない

九太は生卵が苦手で一旦卵かけごはんを拒否しますが、受け入れて食べ始めます。これは熊徹の元で生きて行くことを決意した場面なので言いたいことは解ります。

でも観てるこっちは気分が悪い。勘弁してくれーと思いました(涙)

食べるシーンは美味しく演出して欲しい…

そういう意味ではジブリはやっぱりスゴイと思います。食べ物がとっても美味しそうに感じるもん。

この世界は卵は生が基本なのかしら?と一瞬思ったのですが、いやご飯は炊いてあるしなにより

鶏小屋で寝ていた九太をフライパン叩いて起こしてるやん!

調理器具あるやん!

あれは叩くだけの道具なのかーっ!

昭和のスポ根ものじゃないんだから弟子入りと言っても吐きそうになりながら食べることが本当に正しい表現なのかしら?

うさぎ跳びやれとか練習中に水は飲むなとか、なんだか昔のよくない指導方法を一方的に受け入れざるを得ないような、そんな理不尽さを感じました。

映画の公開が2015年なんですから、もうちょっと現代的なアプローチをして欲しかった。フライパンあるなら九太が大好きなオムレツ作ったって良かったんじゃないのかなぁ。オムレツ難しいなら目玉焼きだっていい。

オムレツ作るけど、熊徹には受け入れられるような演出っていうのかな。

あのシーンではそんなことを思ってしまいました。

熊徹は転生の必要があったのか?

九太が成長してからはさらに不可解で唐突です。人間界かケモノ界なのか、葛藤のシーンがないから「父親が見つかったから一緒に暮らす」ってあまりにも熊徹に情がないよねーと感じてしまう。

長くなるので端折りますが、私が最大にモヤってしまうのはここからです。

クライマックスでは、熊徹は付喪神(つくもがみ)に転生して大太刀となり九太の胸の中に吸い込まれていきます。

宗師に転生を願い出た熊徹の主張としては

・九太にはまだまだ誰かの助けが必要
・九太の役に立ちたい
・九太の胸の中の足りないものを埋めてやりたい

ということなんだけれども。

そもそも師匠の役割って弟子を独り立ちさせることなんじゃないの???

重傷だけどなんとか熊徹が九太のところまで来て一郎彦との戦いのコツを側でアドバイスするというほうが師匠っぽいような気がするのだが。

そして戦いの後は「お前もこれで一人前だな。どこでも好きなところへ行っちまえ」と渋天街に戻っていく熊徹…というのが私の脚本(笑)

きちんと独り立ちさせもせず大太刀になって胸に収まるなんて、師匠の在り方としては明らかに変でしょ。

九太だって熊徹に助けてほしいなんてこれっぽっちも思っていなかった。完全に熊徹が自分の気持だけでやってる…つまり自己満足(エゴ)。

もちろん自己満足でも良いんですけど九太を人間界にスムーズに戻らせるための脚本だと解ってしまうからモヤモヤするのよねー。

誰かの犠牲の上に成り立っている幸せってもう時代遅れです。

九太のパーソナルスペースに無理やり入っちゃってるのはどうにかして欲しかった。

よりによって一番大切なハートのスペースに入っていくなんてーーー!(涙)

パーソナルスペースは自分だけのエネルギーで

これはエネルギー的なお話なのですが。

自分のパーソナルスペースは自分だけのエネルギーで満たしておくというのが望ましいのです。

何故かと言うと、自分以外の存在に影響されて本来の自分自身ではない行動をしてしまうということがあるからです。ほら、憑かれている人がちょっとおかしい行動取ったりするって言うじゃないですか!あれです。

相当悪意のある存在と一緒にいることは稀ですが、ネガティブな感情に紐付いた存在を知らないうちに招き入れているということは誰でもあります。(セッションではその存在に本来の場所に帰ってもらうようにすることもあります)

時には神聖な存在を招き入れているお客様もいらっしゃいます。

神聖ではあるけれどもパーソナルスペースからは離れてもらったほうが良いですよ、とお伝えして了承していただいた場合は処置をします。(どうしても離れたくないという場合は無理に離したりはしません)

せっかく神聖な存在と一緒なのにいなくなってしまうの?とガッカリする方もいらっしゃいますが、それはそれで問題があってあまりにも崇高なものを目指しすぎて修行に走っちゃって人間らしい泥臭さが無くなっちゃうというか、日常生活を楽しめなくなったりするのです。

本来は会いたいときに会えば良いんですよ。

繋がりたい存在をその都度召喚して交流すればいいことなんです。そのときは自分のオーラの中に招き入れるようなことはしないで存在たちとも一線は置く。そうじゃないと対等になりません。

また他者と関わる時は相手の意志を尊重することは基本中の基本。

本人(九太)の意志も確認せず勝手に大太刀になって胸に収まってしまうということは私からすると一方的で相手を尊重していないなと思うんです。

結末もなんだか中途半端

最終的に九太は渋天街を去って人間世界に戻って本当の父親と暮らし始めます。

そして剣はもうやらないんだよね。そこは剣道始めましたとかのほうが物語としてはキレイに終わったと思うんだけどな。九太の成長物語なので渋天街での習慣からは卒業するという意味ではありかもしれませんが。

細かいところを挙げればまだまだ出てきますが、肝心なところをちゃんと表現していないというのがこの映画の残念なところだと思っています。

あなたはどうご覧になりましたか?この作品がお好きな方は私の意見は無視してくださって結構なのですが…ああ、でも!

自分の中心に両親や師匠が存在しているとしたらどうですか?

育ててもらったかもしれないけどいつまでも一緒になんていたくない。私は気持ち悪いです(苦笑)

今回は以上です。最後までお読みいただきありがとうございました!

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